Stories of the DEVeL PROJECT:DEVeL−1 and DEVeL−2 |
Written by ピヨちゃん 2000年10月21日:初出 |
■DEVeL創生期〜DEVeL−1 |
その内容とは、 「来年、鈴鹿市は市制50周年を迎える。その記念事業の一環として、来年夏に鈴鹿サーキットで開催されるソーラーカーレースに鈴鹿市民のチームも参加することとなった。ついては鈴鹿商工会議所よりソーラーカーの製作、およびチーム運営を依頼された為、学生より参加者を公募する。」 当時はF1ブームの真っ只中、しかも私個人的には運転免許を取得したばかりにあり、この計画はまさに夢のようなものであった。 第1回目の説明会には実に50名以上が集まった。しかし、そこで突きつけられた条件は、 ・来年の春休みから夏休み前半までの休みはすべて返上すること。 ・現在入っているクラブの活動よりも、ソーラーカーを優先すること。 ・ソーラーカーが原因で成績が下がって留年することになっても、責任は負いかねる。 と言うものだった。そのあまりのリスクに、2回目の説明会ではガクッと人数が絞られた。そして最終的に残ったメンバーは、私を含め8名、初代鈴鹿高専ソーラーカープロジェクトチームの誕生である。ちなみに現在のTeamMAXSPEEDメンバーでは、私の他に、稲本と高野がそのメンバーである。 実際の活動は、春休みから始まった。とはいえ、ソーラーカーに対する予備知識も全く無く、ソーラーカーというものを見たことすら無かった我々は、何から手を付けて良いかわからず、取りあえずの部品にと集められた廃棄自転車をバラしたり、自動車部の部室に落ちていたブレーキキャリパーとかローターを意味も無く洗浄したりしていた。 しかしながら、とりあえず人が乗って転がる物を作らなければ始まらないということで、アルミパイプを組んだ上にモータを載せ、自転車のタイヤを付けただけのマシンがゴールデンウイークには完成した。またこの頃から中京テレビの密着取材を受けていた。当時、ソーラーカー自体が珍しく、しかも学生チームということで話題になり、何でも30分の特別番組を作るとのことだった。これが有名な「鈴鹿高専ゼロからの挑戦」である。 「DEVeL」というプロジェクト名称が決まったのもちょうどこの頃である。D=ドリーム、E=エコロジー、Ve=ヴィークル、L=ライフ、それらを組み合わせて、デヴェロップメントに通じるというもので、たしか商工会議所の方で決まってきた名前だと記憶している。最初は「デビル」と間違われて格好悪かった。 6月には、いよいよ鈴鹿サーキットでの試走会に挑むこととなった。この時のマシンは、ゴールデンウィークに走るようになった試作車両に、補器類と塩ビ製のカウルもどきを取り付けただけのもので、後に「DEVeL−0.5」と呼ばれるようになる。モータは安川電機製DCを搭載。コントローラーはなく、スタート時のみ機械式の抵抗で電流を調整し、走行中はバッテリー直結、スピードコントロールは自転車用ギアと、電流のON,OFFで行うというものであった。今となっては狂気の沙汰のように思えるが、当時としては珍しくなく、この方式は「DEVeL−1」に受け継がれることとなる。 テストランでは、その抵抗を抜くスライダックが壊れS字コーナー途中でストップした。しかしこの車にはメインスイッチと言うものが無く、モータに電流が流れたままストップした形となった為、慌ててケーブルをひきちぎる羽目となった。 修理を施して再スタートを切ったが、今度はスライダックが全開状態で壊れてしまった。よって全コーナー全開で進入する事となった。ちなみにFタイヤは、車椅子用のものでサイズは24インチ。当然グリップなどする訳が無く、スプーン2コーナーでタイヤが歪む様子は、今までソーラーカーに携わってきた中で最も恐かった出来事である。幸いにしてバックストレートでチエーンが外れたので止まる事ができた。あのままシケインまで行っていたら今の私は無かったであろう。 そのままピットまで押して戻ったら、モータが焼損している事が判明し、テストは打ち切りとなった。とんでもない試走会であった。 試走会が終わり、いよいよ大会用マシン「DEVeL−1」の製作に取り組んでいた頃、チームに1つの事件が起こった。そう、あの「SB−020」のデザイナーである蔵城氏がチームに加入したのである。彼はここで確実に人生の道を踏み外すこととなったのだが、当時はそんな事など知るよしも無かった。 では「DEVeL−1」について少し振り返ってみよう。 レース直前の試走会では例によってフレーム剥き出しだったマシンも、レースまでには何とか仕上げる事ができた。 そうして参戦を果たした記念すべき「ソーラーカーレース鈴鹿92」には、ホンダ、日産の2大ワークスの他に、京セラ、中部電力、ムーンクラフト、早稲田大学、東海大学、関西電力と童夢がジョイントした「エスペランサ」等、層々たるチームが集結し、また「ソラえもん」がデビューしたりと、大変な盛り上がりを見せていた。もちろん、太陽虫、ZDP等、現在のトップチームや、お馴染みのシバタファミリーも参加している。 鈴鹿高専チームの戦い振りと言うと、まず予選では、アイルトン世古氏がスーパーラップ7分34秒をたたき出し見事予選突破。 (注: 「DEVeL−1」というマシンは決してポテンシャルの高いものではなかったが、そのパッケージングの良さと、信頼性の高さは歴代「DEVeL」の中ではNo1だと思っている。それは、製作プロデューサーである田中祐治氏と、バックサポートをして頂いたテックプロダクションの力によるところも大きい。 とにかく、我々がソーラーカーと言う魔物にとりつかれた1992年は創生期ならではの苦労も多かったが、それゆえに思い出深い年であった。 |
■DEVeL-2「ホールショット」 |
ソーラーカーレース92におけるDEVeL-1完走から数ヶ月、ストーブリーグに突入しても我々は、各種イベントでのDEVeL-1の展示や、雑誌等の取材を受ける毎日を過ごしていたのだが、同時にひとつの不安を抱えていた。 「来年のソーラーカーレースには出場することが出来るのだろうか。」 当時のスポンサーであった商工会議所とは、とりあえず、30周年記念の年に出場して、その後はどうなるかは未定という契約であったので、正直な話、DEVeLは1年だけの計画で終わっても、全くおかしい話ではなかったのだ。 しかし、すでにソーラーカーという魔物にとりつかれていた我々は、田中技官にお願いし、また田中技官もすでに魔物にとりつかれていた1人であった為、商工会議所との契約延長にあたってもらえた。その甲斐があり、商工会議所メンバーの理解をえることができ、とりあえず5年間の契約という運びになった。 これにより晴れてDEVeL-2計画をスタートさせることが出来たのである。 先ず入ってきたのは、田中(ひ)。なんでも板金屋の息子という大型新人である。そして、小林(現MAXSPEEDリーダー)、びいと、池田の3ダメトリオである。小林は当時からネチネチ作業が得意で、びいとはやっつけ仕事&おやつ作業が得意で、池田は無駄にテンションが高かったのを覚えている。 マシンの製作は例によって遅れに遅れて、ゴールデンウィーク明けから始まった。 ここでDEVeL-2というマシンを振り返っておきたい。 フレームはアルミ角パイプ製で、スタンダードな箱型を採用。また、DEVeL-1からの大きな変更点として、このマシンよりサスペンションを持つこととなる。リアはトレーリングアーム、フロントはWウィッシュボーン風イタバネサスペンション。これは最初Wウィッシュボーンで計画を進めていたが、ダンパーの手配が間に合わず、急遽田中板金よりイタバネを頂いて来て、両方のサスペンションアーム部にイタバネを渡した斬新なもの。モータは例によって富士電機製の化け物で、この年は安川電気製のコントローラーを備えていた。また、カウルに関してはビニフォームという発泡剤を採用。ドライヤーで熱を加えるだけで簡単に成形でき、上からエポキシ樹脂でビニールシートを張り付けることで剛性を持たせようとしたが、これが失敗。エポキシ樹脂をふんだんに含んだ超ヘビーなカウルとなってしまった。 7月の試走会も迫り、マシンの完成が間に合うかどうか微妙なタイミングの中で作業をしていた我々であったが、FM三重から流れたソーラーカーレースと鈴鹿高専チームの紹介を聞いて一気にやる気が倍増し、カウルは付いていないものの試走会にはなんとか間に合わすことができた。 そうして臨んだ試走会はというと、チェーンリレーラー部のセッティングがうまくいっておらず、チェーン外れトラブルが頻発。パートナーの高野はコントローラーだけで1周回ってきたが、再度私にチェンジした時に、またしてもチェーンが外れ、そのチェーンがリアタイヤのスポークを折ってしまいタイヤがバーストした。まったく、試走会には良い思い出が無い。尚、この試走会には超有名なゲストが参加していた。元F1パイロット中島悟氏である。この時90ドリームに乗り込んだ彼は、全域ドリフトでコーナーをクリアし怒涛のスーパーラップ3分54秒を叩き出したのは有名な話。しかし確か6周目くらいのバックストレートで止まったと記憶している。その話は闇に葬り去られているようだ。 脱線してしまったが、そのような訳でDEVeL-2の完成度に一抹の不安を抱えながら我々はソーラーカーレース93に臨むこととなった。 93年という年を思い出してもらいたい。そう、近年まれに見る冷夏の影響で米不足に陥り、各地で平成の米騒動という事態が発生した年である。ソーラーカーレース当日も予選を除けばほとんど雨であった。 予選アタックは高野。チェーントラブルの可能性を不安視しながら出ていった彼であったが、ここで電気系トラブルが発生。ヒューズが切れるという簡単な物であったが、予選終了時刻は迫る。なんとか叩き出したタイムが92年より1分遅れの8分30秒台。それでもなんとか予選落ちは免れることが出来た。 そして第1ヒートが始まった。ドライバーは私。スターティンググリットに着くまでにすでに1度チェーンが外れるアクシデント。何とかスタートは切るものの、2コーナーで再びチェーンが外れた。デグナー、スプーン入口、スプーン出口…本当に数え切れないくらいチェーンが外れては、マシンを降りてチェーンを掛け直しスタートを切る作業を繰り返した。そして、マッちゃんコーナーで止まった後、再スタートを切る為グラベルからオフィシャルに押し出してもらった時、「バーン」という音と共にリアタイヤがバーストした。 ここで私はひとつの決断を下した。 「第1ヒートを捨てよう」 確かに、モータに大電流を流せばマシンは動く。しかしこの1周の為に膨大な電力を消費するのは如何なものか。たとえ、このヒートを捨てることになっても、このままバッテリーを温存しておけば、明日他チームのバッテリーが無くなった時に勝負をかけることが出来るのではないか。この天候ならどのチームも明日になれば止まり出すさ。 この決断には正直なところ、かなりの勇気がいった。事実、ピットに歩いて帰った際には、 「何でマシンを置いてきたの?」 と尋ねられたりもした。 しかし、私は今でもあの時の決断は正しかったと思っているし、後悔もしていない。と同時に私のソーラー人生の中では最悪の思い出である。 ミックに載せられ、わざわざピットモニターで中継されながらピットに戻ってきたDEVeL-2の修復作業は深夜まで及んだ。花火がうるさかった。津のヤダサイクルまで車を走らせ、帰りがけの店主に明日までに直してとホイールを渡した。でも何故か開催されていたバルーンフェスタの気球を上げるのを手伝って、兵頭が手に大やけどを負ったのもこの時である。まったく、当時から忙しいチームであった。 1夜が明け、第2ヒートが始まった。ドライバーは高野。彼は昨日の状況から判断し、自転車ギアによるギアチェンジをやめ、すべてコントローラーによる制御で走る作戦を取った。この判断が功を奏し、バッテリー切れの他チームを尻目にファーステストラップに迫る勢いでどんどん周回を重ねて行った。そして第2ヒートの順位は何と5位。リーダーボードにも「ゼッケン71」はしっかり掲示された。 そして迎えた第3ヒートは5番グリッドからのスタート。我々は5番グリッドを獲得した時点で、ある計画を思いついていた。 「第3ヒートのホールショットを獲ってやろう。」 ドライバーは高野。スタート前の彼の眼光は今でも心に染み付いている。前には90ドリーム、日産サンフェーバー、そして太陽虫。(当時はあまり知らないチーム…) シグナルレッドからブルーへ! 各車ゆっくりと動き出す中、スルスルっとDEVeL-2が隙間をついて先頭へ。1.1kw富士電モータに鞭をふるい一気に加速。が、もう1台フル加速するマシンが… 90ドリーム! 第2ヒートを終わった時点で日産サンフェーバーにわずかながらリードを許していた王者も、その有り余るポテンシャルを発揮し、ついにアタックを開始した。 両者並んだまま1コーナーへ。まずい、明らかにドリームの方が伸びている。 「いっけー!!」 ピットから悲痛な叫び声を上げた瞬間、DEVeL-2の赤い車体が奇跡の二段加速を見せた。インはDEVeL-2。高野頼む、ブレーキを踏まないで!ドリドリ状態で1コーナーをクリアし2コーナーに入る赤い車体。ドリームは前にはいない。後ろだ! 「やったぜ、ホールショットー!」 その後、2〜3周トップ集団を走っていたDEVeL-2だが、力尽きて最後は後方でチェッカーを受けることとなった。総合24位。92年には一歩及ばなかったものの、トラブルが多発していたことを考えるとまあまあの成績であった。それよりも第1ヒートの悔しさを補って余りある思い出が出来た。そう、DEVeL-2で参戦したソーラーカーレース93は記録よりも記憶に残るレースであった。 ちなみにレースの方は、当初8時間耐久の予定であったが、悪天候により第3ヒートが短縮され6時間30分のレースとなり、優勝は92年のチャンピョンマシン「90ホンダドリーム号」を走らせたホンダ学園関西校であった。 |
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